眠る娘

まだ小学校は夏休み中で、子供達は朝から学童へ行っていた。妻は朝から仕事に行った。金曜日だった。

僕は午前中に仕事を終わらせて、近所の屋外プールで2600mも泳いだ。太陽の光がプールの底の青く塗られたコンクリート面をキラキラと照らし、紫外線カットの水中ゴーグルを通して見ても眩しいくらいだった。

プールの客の大半は子供を連れたファミリー層、もしくは子供同士で来ているグループばかりでスライダーや流れるプール、幼児プールなどにいた。

僕がいたのは競泳用の50mプールで子供は入水禁止だった。このためとてもすいていた。50mプールには8コースもあるのに泳いでいるのは2、3人だ。

広大なプールを独占したかのような感覚で泳ぐのはとても気持ちが良いものだ。泳いでいる際の水中の景色は真夏の最も美しいものの1つだ。僕は水中の景色に陶酔しきって泳ぎ続けた。そうしたら結果的にいつも泳ぐ1500m~2000mと比べていくぶん長く泳いでいたのだった。

プールから帰り、自宅で昼食をとった。

家中の窓という窓は開け放していた。

普段は、東京の温度だけでなく湿度も高い不快な夏に辟易とさせられているのだが、この日は不思議と湿度が低く体感としてはカラリとしており、時折吹くそよ風がとても気持ちの良い日だった。

あまりにも気持ちがいいので、ビールを飲んでソファでウトウトしていた。

電話が鳴った。

夕方だった。そろそろ妻が子供達を連れて帰って来る頃だ。

電話に出ると妻がパニック状態で、車で学童まで来れるか、と訊いてきた。なんのことか分からなかった。とりあえずビールを飲んでしまって運転ができない旨を伝え、理由を訊ねてみたら、娘が学童のお外遊びの時間中、公園内のブランコから「飛び降り着地」しようとして失敗し、コンクリートの地面に頭を強く打ち付けたとのこと。

そして、妻は今から近くの病院へ娘を連れて行くと私に告げて電話を切った。

僕の頭は心地よいまどろみの最中に、突然、鈍器で殴られたかのようだった。週末に向けて緩やかに時間が進んでいく幸せな金曜日の夕方が、突然、混乱の渦中へ放り込まれた。最愛の娘が頭を強打しただって?容態は?生死に影響するほどなのか?大丈夫なんだろうか?

僕自身は病院へ出かけるにはちょっとラフすぎる格好だったので着替えたりしていたら、妻から続報があった。病院でレントゲンを撮り、頭の骨には異常がなかったと。しかし、病院で嘔吐してしまったと。嘔吐があるということは脳にも影響が出ているかもしれない、という医者の見解があり、CTスキャン設備のある病院で詳しく診てもらうことを勧められた。今、娘は寝ている。ここまで言うと、妻は病院のスタッフに呼ばれたようで、電話は切られた。

僕はただただ心配で家でオロオロしてた。すると、妻が自転車で息子だけ連れて帰宅した。車で病院に戻り娘をピックアップしてCTがある別の医院へ行くと告げ、バタバタと車で出かけていった。

息子と僕でお留守番だ。息子は泣きべそをかいていた。妹が可哀想で心配なのだ。10歳の兄にとって四六時中一緒にいる8歳の妹の事故は、心配で心細いものであろう。長いこと息子とソファの上で抱きしめあった。

ただ心配でじっとソファに座っているだけだと、不安が大きくなる。部屋を見渡すと外は陽が落ちて風が強くなりカーテンを大きく揺らしている。

いつもは家事の手伝いなど全くしない息子だが、洗濯物を一緒に取り込み畳んでくれた。本当なら畳んだ洗濯物をクローゼットやタンスやらにしまいたかったが、自分達の衣服はさておき、その他の正しい格納場所は残念ながら僕にも息子にも分からないので、畳んだ状態でリビングの片隅に置いておくことにした。

それでも手持ち無沙汰なので庭の家庭菜園に息子と二人で水を撒くことにした。

クーラーのきいた部屋から庭へ出るため窓を開けると、むあっとした夏特有の空気が全身を覆った。イヤな感じがした。

僕は息子より先に庭に降りてホースの準備をした。息子は家から庭に出るための縁台に出てきて僕から受け取ったホースで家庭菜園に水を撒いた。満遍なく家庭菜園に撒くためには縁台から降りて撒く必要がある。しかし、庭に出るサンダルは息子の分がなく、僕が残りの水撒きをすることにした。すると、家の中に戻った息子が僕の電話をもって窓から呼びかけてきた。

妻からの電話だった。

CTがあるはずの病院は大人でないと診察不可とのこと。救急車を呼ぶほうがいいこと。病院から救急車は呼べないので、自宅で呼ぶしかないこと。今、娘を連れて車で自宅に向かっていること。救急車を僕が今から呼んでほしいこと。

矢継ぎ早に用件を伝えられ電話は切れた。

僕は自分を落ち着かせるため、ひと呼吸してから119に掛けた。

「火事ですか?救急車ですか?」応答した救急隊員に娘の年齢やケガの状況を伝えた。

「娘さんは今、意識はありますか?」こう質問されて戸惑った。僕は今、娘の意識があるのか知らない。事故の報を受けてから今まで娘に会っていない。娘はいったい今どんな状態なんだろう?心配で心配で胸が張り裂けそうだ。

電話ごしの救急隊員へ、今、娘はココ(自宅)におらず車で戻っている途中である旨伝えた。息子に確認してみるとレントゲンを撮った際には意識があったそうなのでその旨を救急隊員に伝えていると、妻と娘が車で帰ってきたのが見えた。娘は妻に支えられて車から降りてきて自分で歩いていた。少し安堵した。

救急隊員に「たった今、娘が帰ってきました。意識はあります。」と伝え、救急車が迎えに来てくれることになった。

私の119への電話中に玄関から家に入っきた娘は酷く疲れているように見えた。しかし自分で歩いて洗面所に手を洗いに行った。

電話を終えた僕は洗面所まで娘を追いかけた。近くで娘に会いたかった。彼女の存在を実感したかった。

間近で見ても娘は疲れ切っているようだった。痛々しく右目付近を腫らした娘の顔を見た瞬間、感情が堰を越えてしまい声をあげて泣いてしまった。

手を洗い終えた立った状態の娘を、跪いて抱きしめていた。

娘は「パパ、大丈夫だよ。疲れた。ソファに行きたい。」と弱々しい声で言った。

娘はソファに横になり目を閉じた。

救急車が到着した。救急隊員が降りてきて娘に質問する。救急車まで歩けるか訊ね、娘は自力で救急車まで歩いた。妻が付き添うことにした。僕は泣きながら、娘を見送った。玄関を出て娘が振り返り「行ってくるね」と言った。

アッという間の出来事だった。

家に残った僕と息子。3人掛けソファの両端に座り、救急車で運ばれていった娘(息子にとっては妹)を思って、二人で声を上げて泣いた。

救急車で県の総合病院に搬送された娘はCTスキャンを撮り、脳に出血などは見られない、嘔吐や睡眠は「脳しんとう」が原因だろうということだった。

総合病院はコロナ感染病のせいで混み合っていた。CTスキャンの撮影にも結果の説明にも長時間かかった。

医者は妻に説明している間も携帯電話がひっきりなしに鳴る状態だったそうだ。

妻は辛抱強く耐えた。娘はだいたい寝ていたが、検査などで移動したりすると吐いた。妻曰く、その度に医者や看護師に相談したりして大変だったそうだ。

結局、深夜0時ごろにタクシーで妻と娘が帰宅した。娘を抱きかかえてタクシーから家の一階に用意しておいた布団まで運び寝かせた。息子も心配で起きていたが、まずは妹が帰ってきたんだし安心して良いということで、寝るように勧めた。

妻には温かい汁物と白飯と簡単なおかずを用意した。僕も一緒に食べた。温かい食べ物は人をホッとさせる。妻の張り詰めていた緊張も幾分弛んだようで良かった。

妻はシャワーを浴び、家族四人、普段はみんな二階で寝るのだが、一階で娘のそばで寝ることにした。

娘は帰ってきてからもほとんど口をきかずこんこんと眠り続けていた。

金曜日の夕方に頭をぶつけて以降、土曜日の朝まで、病院や移動時に少しの会話と動作をする以外、娘は眠り続けた。

土曜日の朝、家には僕と娘の二人だけがいた。息子はバスケットボールチームの練習があり、妻は保護者代表として練習に帯同していた。

娘が目を覚ました。すぐそばにいた僕に気がつくと寝たままの姿勢で両手を広げて抱きしめてくれるようせがんだ。僕は駆け寄り娘の小さくて細い身体を優しく抱きしめた。こんなに小さな身体で頑張っているのだと思うと涙が出た。

何かしたいことはないか尋ねると、お腹がすいたそうなので、少しのスポーツドリンクと少量のお粥を持っていった。布団の上に上半身だけ起こした娘だが、目を開けて下のほうを見ると目が痛むそうで、目は瞑っていたいとのことなので、お粥をひとさじづつ口に運んでやった。

目を瞑りながらお粥を食む娘の介助をしながら僕はまた泣いた。

ほんの少量、さじ5杯分くらいの粥を食べた娘はすぐに横になりまた眠りはじめた。

息子と妻が帰って来て昼食を食べた。その頃、娘もまた起きた。今度は妻が介助してまた少量のお粥を食べた。食後、妻が娘をトイレに連れて行ったが、久しぶりの歩行がよくなかったのか嘔吐してしまった。

そして娘はまた眠った。

土曜日の夜7時ころ晩御飯の準備をしていると娘が起きていた。話しかけると怪我をする前のような快活な明るい会話ができた。それまでは混沌とした意識の泉の中から現実世界を覗いているかのようや会話だったが、土曜日の夜の会話は娘も現実世界に共に存在していることが実感できる会話だった。それで少し安心した。

が、会話は疲れやすいのか、散発的に話をしていただけだが、30分もするとまた眠りはじめた。

土曜日の晩御飯は娘抜きの3人で食べた。みんな娘のことを考えてしんみりとした食卓だった。娘の脳に刺激を与えてはいけないとテレビやゲーム、タブレットなどの電子機器は控えたり、ヘッドフォンをしながら無音でした。

土曜日の夜も、一階で娘のそばで家族全員で眠った。

日曜日の朝7時、朝食の際にも娘は起きてこれなくて布団に横になっていた。

しかし目は覚ましていて、家族と会話はできるようになり、冗談を言ったり笑ったり、前日までの状態とは明らかに違っていて回復著しいという印象を持った。

日曜日の昼前には娘は自主的に布団から出てきてソファに座った。娘の回帰祝いに彼女が大好きなたらこパスタを昼食に作った。娘は皆と同じテーブルについて食べた。しかし、脳か胃か、もしくはその両方か、なんにせよ食後に嘔吐してしまった。娘は泣いた。せっかく作ってくれたパパに悪いと。僕はそんなことは気にしなくていいから眠って身体を休めなさいと言った。

嘔吐といっても突発的なもので娘の体調は全般的に回復してきていて、午後の間、ずっと調子が良かった。家族全員で会話したり、カードゲームなどもできた。

日曜日の晩御飯、もちろん娘もみんなと一緒に食卓につき、みんなと同じものを食べた。よーく噛んで、ゆっくり食べるよう両親が何度も伝え、娘もきちんとその通りにした。結果、嘔吐もなく、夕食を終えた。

日曜日の夕食後、テレビが消えていて、静かにクラシック音楽がかかっている以外はいつもの我が家の姿に戻っていた。

月曜日になると完全に普段の日常生活、息子と娘の言い争いや小競り合いも復活した。火曜日には、ちょっと目を離していると娘は側転したり、ソファに飛び込んだりしていて、親が病み上がりなのだから止めなさいと注意しなくはならないほどだった。

火曜日の夕方、4日ぶりに娘を連れ出して屋外を散歩した。翌日水曜日から学童への登校を再開するので、外の空気にも慣れておいたほうがいいという考えで。学童の職員の方々にも回復の報告に行った。学童の責任者から今回の事故について謝罪されたが、ウチの娘の不注意による事故であり、学童には何の非もないと改めて伝えた。

そして水曜日の朝、いつも通り、家族全員で朝食を済ませ、出勤する妻に連れられて娘と息子は元気に学童へ登校した。

もう娘は眠り続けることはないし、大丈夫だ。激しい運動はもうしばらく控える必要があるが、基本的には完全復活だ。

娘が眠り続けていた時、本当に心配した。最悪の事態を想定したりもした。

子供は無鉄砲で、注意散漫で、事故や怪我はつきものだ。かといってアレもダメ、これもダメでは自主性が育たない。

今回の件は娘にとって良い教訓となってほしい。何か危険性のある行動をする時に、一瞬だけ事前にその危険を頭に思い浮かべることができたら、対応力も上がるだろう。

もうこんな心配はしたくない。

娘の健やかな成長を祈る。

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